生きてる機械

プラネタリウムは偽装星

 

 

evil lineを聴いて死にかける

私にはその瞬間がわかる

針が左から右側に振れる、あの時の

致死への始まりが、私にはわかる

 

全くの平常を少しずつ乗り越えて

人は時に死のうとする

きっかけはなんだってあるけれど

日常のとても些細なことに過ぎない

(例えば今日、頭の中に流れた鼻歌)

 

人は私の詩を暗いから大丈夫かと言うけれど

私には何だってないことだ

紙に吐くただの嘔吐のその先に

終わりが待ち受けているのは何メートルも向こう

少し進んでまた戻る

行ききらないうちは大丈夫

 

だって今日も

朝の光の喫茶店

静けさがまた私を救う

今日の私はまだまだ爪先 その前よりも手前

きっと光の中で過ごせる日でしょう

 

(文学と音楽の微睡むような美しさは味を間違えれば時として死へと至る)

 

 

私は抵抗している

これらの世界と無関係になるまで

 

 

 

 

じし

 

自死を望むのは何故

 

母が隣で古紙に出す新聞をまとめている

こんなにも生きる作業をしている人がいるのに、私が自死を望むのは何故

いや、望んでいるのは本当に自死なのか

観念かもしれない

死ぬという観念

それを自分で迎えるという観念

実際、きっと死ぬのは嫌でしょう

もっと疲れ切った時、同じ答えが出るかはわからないけれど

 

私が祈る朝が来て

絶えず死にゆく夜が来る

朝に白い光が見えたら

きっと私はその日を過ごす

森を見ながらその日を過ごす

何千万もの私の死骸を

忘れて私はその日を過ごす

白い空の、心地よい日に

夜になってもきっと死なずに私は私を優しく労わる

 

私が自死を望むのは何故

答えのない夜を過ごしている

床の上やら椅子に座って

さも当たり前のような 少し笑った顔をしながら

苦しむ夜を過ごしている

 

 

 

答えもないのに死にたくなるのはきっと答えを知っているから

 

 

祈るって

 

気をつけなきゃいけないことあるとおもうんだけど。

 

それは実現させようとしてよいことなのかどうかとか。

人の心を変えるのはよくないし。だってその人の学びをうばうことになるし。時としては道や、成長すらも。結果オーライという言葉だけで簡単に済ませていいものではなさそうというか。

 

祈るには、分別が必要だと思うのです。

 

ただ、それを、愛ある善なるものが、聞き分けて、言葉通りに叶えるんじゃなくてある程度精査してできることをしてくださったら、よいなとは思う。

 

でもそれも、そこに私たちの意思がどれだけ、

 

 

 

つかれた。きょうはここまで。